1630年 - 17世紀
1630 : 欺かれた者たちの日
ルイ13世の治世における政治的、外交的に大きな曲がり角を示す「欺かれた者たちの日」は、ヴェルサイユにおけるフランスの歴史の最初の出来事でした。マリー・ド・メディシスとリシュリューが対立し、リシュリューが勝利するという思いがけない終局を迎えた一日。
「欺かれた者たちの日」は、マリー・ド・メディシスが暮らしていたパリのリュクサンブール宮殿で始まり、ルイ13世の小城であったヴェルサイユ宮殿で終わります。1630年9月、王太后マリー・ド・メディシスは、命にかかわるほどの重病に罹ったことをきっかけに、息子の国王に、ライバルであったリシュリュー枢機卿の罷免を求めました。王太后は、国政においてこの宰相が王に与える影響が高まっていることに我慢できなくなり、王に約束を思い出させる好機を狙っていたのです。
王太后は、特に外交政策上で(当時は三十年戦争の最中であった)枢機卿と対立する反対派の強力な支持を受け、11月10日の朝、その敵意を表しました。ルイ13世は、母后の大言壮語に対して譲歩するつもりでしたが、リシュリューが突然現れたことから、すっかり狼狽してしまいました。嫌悪する宰相に逆上した王太后は、驚愕で言葉を失って青ざめた国王に対して、彼女とリシュリューのどちらかを選ぶよう迫りました。息子の王に強烈な印象を与えていたマリー・ド・メディシスはリシュリューを打ち負かしたと確信し、宰相は辞職を覚悟しました。しかし、ルイ13世にとってリシュリューは欠くことのできない人物であり、王は自分がそれまでどれほどこの宰相に頼ってきたか分かっていたのです。
その夜、王はリシュリューをヴェルサイユに呼び、2時間にわたって二人きりで話し合いました。そして、この宰相への信頼を新たにし、母后を見放すことを決意したのでした。マリー・ド・メディシスはパリを離れてコンピエーニュに留まるよう命じられ、ルイ13世がその後母后と会うことはありませんでした。後に亡命した彼女は、亡命先から陰謀を続けましたが、リシュリューへの敵対者は全て弾圧されました。彼は王国の公爵と同輩公に叙せられ、完全な勝利を収めたのです。この「欺かれた者たちの日」によって、リシュリューは真の意味で権力を発揮するようになり、1642年に生涯を閉じました。