何世紀という時の流れの中で

1811年 – 19世紀

1811 : ナポレオンの大トリアノン滞在

ナポレオン1世は1804年に「フランス人民の皇帝」となった後、ヴェルサイユに居を構える考えで、彼が抱える建築家に、宮殿の改築および1775年に未完成で放置されたままであった大計画の完成を命じました。しかし想定される出費の多さにより、皇帝の希望は断念させられ、工事は最良の日まで延期されたのでした。

皇帝はそれでも大トリアノンに関心を寄せ、良い季節時用の田舎の別荘建築を希望しました。そして1805年3月に当地を訪れ工事開始の命令を出し、母親である皇太后「マダム・メール」には大トリアノンに、妹であるボルゲーゼ王妃ポーリーヌには小トリアノンに居住することを提案しました。母親はそれを拒否し一度も来ることがありませんでしたが、妹は承諾したのでした。修理はヴェルサイユの建築家ギヨーム・トレプサによって実施され、同時に家具が注文されました。ポーリーヌは翌夏からそこに滞在し、兄を夕食に迎えるようになります。そしてナポレオンは常に軍事遠征に行っていたにも関わらず、トリアノンに居を構えるという構想を無くすことがありませんでした。若きデュフールに補佐を得たトレプサに新たな工事が注文されたのは1808年のことで、1809年から10年には城館全体に家具が配置されます。1809年12月15日のジョゼフィーヌ皇后との離婚発表を機に、皇帝は初めて当地に長期間滞在します。発表当日の夜には、心痛を打ち明けるため既にそこを訪れていたのでした。以降はマルメゾンにてジョゼフィーヌを訪問し、またクリスマスの夜を過ごしています。マリ・ルイーズと1810年4月に再婚したナポレオンは6月には彼女を伴いトリアノンを訪問し、マリ・ルイーズはその夏の一部を小トリアノンで過ごしました。皇帝夫妻が再びそこに滞在したのは1811年7月のことで、続いて8月には皇后の祝祭に際し訪れました。皇帝最後の滞在は、大惨事となったロシア遠征後の1813年3月であり、ドイツへの新たな遠征を準備している時でありました。

大トリアノンの皇太后「マダム・メール」のサロン、ヴェルサイユ、ヴェルサイユ宮殿とトリアノン国立博物館© EPV/クリスチャン・ミレー

大トリアノンの皇太后「マダム・メール」の間